昭和40年02月06日 朝の御理解
昨夜、5日の壮年部会で御座いました。短い時間で御座いましたけれど、ほんとに良い、最近にない信心の共励が、頂けた様に思うんです。新しい方達も1人2人、久留米の古賀さんやら、椛目の篠原さん達が、新しく加わって参りまして、皆さんの色々、言わば活発な信心体験とか、思いを述べて居られました。11時過ぎに、一切り付きましてから、秋永先生を中心に、そこに5,6人残っておりました。
秋永先生が申しておりました。今晩の壮年部会はおかげ頂きましたと、皆さん、ほんとに熱心に、もう無駄のない、そつのない会合でしたと、第一あの例えば私が、お話しさせて頂いた時に、久保山先生、久富先生当りが、し切りにそれを合点して下さる。言葉を添えて下さる「そうですもんね。そうですたい。」と言うて、その言葉を添えて下さったと云うことはですね。
非常にあの雰囲気を有難い物にし、いよいよその無理のない、有難い話しが出たと云う意味の事を話しておられました。これはどんなに自分が気張って話しておりましてもですね、知らあん顔してから、分かりよるじゃろか、ほんなこっじゃやろうか、と言う様な顔しとったりするなら雰囲気は壊れるです。確かに、昨日は珍しく、本当に珍しい事でした。久保山先生からも、生き々としてですたい、あのそれに矢張り言葉を添えたり、強引な合点したりして、話しが段々進んでおりました。
久富先生でもそうでした。本当にそう言う様な、生き々とした言葉を添えるとか思いを添えると云う事、と云う事自体がですね、その話し自体を、生き々するのではなくて、添えているもの自体も生き々として、おかげ頂いておると云う事ですね。お祈り添えをすると。私は誰でも、例えば椛目なら椛目と云う一つの団体の事をです。皆さんが、朝夕矢張り、祈りの中に祈っておられんと云う事はないと思いますね。
椛目の御広前の繁昌を、そして云うならば記念祭の事を、恐らく祈っていない方はなかろうと思うです。所がそれに、いわゆる、お祈り添えをなさっておられるけれども、それが生き々とした物でなからなければ、値打ちはないと云うことです。祈られておる者も祈っておる者も、添えられておる者も添えておる者も、私は生き々として来ると云う物が、なからなければ値打ちはないと思うんです。
例えば、お料理なんかが出されますね。パセリなんかがこう出してあってある。パセリそのものは、大した事はないに致しましても、そこに出されておる、料理というものが、生きて来るでしょうか、どういうそのパセリそのものも、生きておると云う事になるでしょう。いわゆる生かされており、生きており生かされておる。両方が生かし合うておると云う事になるでしょう。ただ自分の事だけが一生懸命に祈れる。
生き生きと祈れると云うのであっては、それは、例えばお刺身ならお刺身が、生き生きしたものが、皿に盛ってあると云う事だけなんです。主人の祈りに家内が陰の形の様に、その祈りを添えておる。同んなじとこに焦点が合っておる。親の事を子供が祈り子供が親の事を、子供の事を親が祈りそれがです。あくまでも生き々としとかねばいけないと云う事です生きてなければ、生きてなければそれは添えた事にはなりません。
どうでしょうかね、活き活きととした刺身がここに、赤茶けた様なパセリなら、パセリが置いてあるとしたら、わさびが置いてあったとしたら、赤い大根が、ちょっと刻んで置いてあってもです、それがしおれておった様にしておったら、わさびが辛くなかったとしたら、返って添えてあって、返ってその中の新鮮なものまで、壊す事になりますでしょうが。どうでしょう。
皆さんの祈りは、そう云う意味合いにおいて、祈り添えられておるだろうか。又、祈り添えしておるだろうか、そう云うふうな働きになって来ておるだろうかと。例えば、ここのお広前でもそうです。私が如何にここに生き生きとして、御用が出来ておると致しましても。ここで奉仕をしている先生方が、生き生きとしていなっかったら、もうそれはその、生き生きしたものを、反って損なう事になりましょう。
例え生き生きとしたものを、私が少しぐらい欠いておってもです。その添えておるものが生き生きとしておったら、それまで生き生きとして来る様な事になるんじゃないでしょうかね。本当に、私はあのいや、自分は誰からでも祈り添えなんかして貰う事はいらん。もう自分だけだって行きよる。これは非常に淋しい信心だと思います。言うなら、お付き合いのない信心だと思いますね。
私くし、今朝からお夢を頂いて、ある方が。私が北京に居りまして参りました時に、参りました年なんか、まぁだ近所にはだあれも日本人は居りませんでした。もうま、随分歩いて、30分位出らないと日本人の家はありませんでした。それから一年半の間に、瞬く間に日本人の方が周囲に増えたんです。けれども本当に、あの知った者がいないお付き合いがないと云う位に、淋しい事はないです。けれどもね、日本におってもそんな人がありましょうが。
もう自分だけでこう近所付き合いもせん。そりゃぁ淋しい事です。そりゃぁ自分は悦に入っておるんですから、もう仕方のない人とは付き合わんと、けれどもそれは丁度それは外地のですね、付き合いの無い中にポカンと居る様なものでは、ないでしょうかと思うですね。だから心配して、その変わり心配して貰わんでえぇといやぁそれまでですけど、心配してくれる人も居ない。
思いを添えてくれる人も居ない。祈りも勿論、添えてくれる人も居ない。お互いが本当にそう云う意味合いにおいてですたいね、こう祈り添えをし合うて行くと云う事、しかもそれが生き生きと云う所にですね、その団体なりそのグル-プなりが、生き生きとして来るんですよ。そこに団体の働きという、ね、祈り。 例えば、家内が祈っておってくれておると、主人が祈っておってくれておると、先生が祈っておって下さるんだと云った様な、実感がですね。
どこに居りましても、そう云うもので交流しておるから心強い、力強いのです。添えるなら添えるで、お邪魔にならない様な添え方。添えるのですから、どこまでもお邪魔になる添え方ではいけません。でしゃばると云う意味ではないんですもんね。どこまでも影の形の様に添えておると云うこと。お刺身の、添えると云うて、パセリばっかり、こう沢山した所でいけませんけどね。(?)添えてある。しかもそれが生き生きとしておると云う事、生き生きとしとかにゃ値打ちはない。
人がお話しをしておる、それにただ相槌を打つだけでも、心が生き生きとして来る。ただこうやって、あの分かったやら分からんやら、分からんなりに、首ばっかふっとったんじゃぁ、詰らん。それから首振っちゃぁならん所でこうこうしよる。分かったごたる振りしてから。それじゃ可笑しいです。こちらがここ、分かって貰わんならんと思うてから話しよる時に。「そうですたい。そこですたい。」それだけでいいのです。
昨日の、壮年部会の様に、全体が生きて来るでしょうが、そして話しておる者、話を聞いておる者、両方がおかげ頂いておるでしょう。お互いの自分の事、誰かれ祈って貰う事はいらん。そう云ういわゆる、利己主義の信心ではいけません。又祈って下さいと頼むもんでもないです。けれども自分が生き生きとして、祈っておるならばです、又生き生きと、祈りが返って来る筈です。
どうぞ例えば、お月次祭の時なんかでもですね、前にざぁっとあの総代幹部の方達が、並んでお祭りを拝んでおられる。非常にお祭りが仕えよいです。それはそう言う風にお祭りに、一つの生き生きとしたものを、添えておられる皆さんが、お参りさせて頂いたけれども、お年寄りの方ばっかり丸っ切、敬老会のごたる事じゃったと云う所には、生き生きとした物がないでしょうが。
それが居っては、ならないと云うのではないけれども、いわゆる中に生き生きとした、若い生き生きとした者が、そこにこうおって初めて、その場全体が生きて来る。お祭り全体が生きて来る。先生が言わば、まぁいよいよお祭りが、仕えようあんなさると云う様な雰囲気をです。皆さんが祈り、その祈り添えによってなされて来ると云う様なおかげを、頂いた時です。
そんならその人自身も生かされておると言う事なんです。この辺をまぁあいよかけよと言った様な言葉で、当てはまるかどうか知りませんけれどです。祈りと云うものが祈られたり祈ったり、祈り添えをさせて貰うたり、祈り添えをして貰うたりと言う様なものが、生き生きとなされて行く時に家庭が、お広前が社会がです、生き生きとしたおかげになって来ると言う風に思うですね。
今日私、添える」と云う事を申しました。添付するのであって、どうぞその何時も添えておるかと、又添えられておるかと、添えられておる実感がないならですね、自分が添えてないと云う事を、先ず悟らなければならんと思うですね。おかげ頂きました。